2012年11月29日木曜日

クソ回顧厨企画~俺とポピュラスFM Towns~


郊外にあった唯一のコンピュータショップは、典型的なアメリカ体型の白髪まじりの親父と、オタク臭いメガネを掛けたひょろっとした息子によって運営されていた…といっても、僕はあの二人が親子だと思った事はなかったのだが、お袋が交差点の角のガラス張りの小さいお店で、息子さんと二人でやっている~と誰かに話していたので、あの二人が親子なんだと認識していた。

その店はいわゆるホビイスト向けのパーソナルユース店で、オフィスユースについても引き受けるというような文言がどこかにあったか、誰かが話していたか、曖昧な記憶が、あるいは今の自分の想像により補完されるものの、僕の記憶に確かに残っているのは、カウンター横に設置されたデモマシンに映る色彩豊かな美しい大地、荘厳な吹き抜ける風と地の鼓動の響きだった、デモマシンでプレイされていたのはポピュラスのオリジナル版だった。こじんまりとした店の佇まい、客が何かを買おうとすれば、抱き合わせで物を買わせようとする卑しい店主、この世の中を層状のディヴィジョンで分けるとすれば、下から数えた方が遥かに早いこの粘土層を巨大な宝石箱のように思わせるほどにAmiga版Populousは輝いていたのだ。

Amiga版Populous




ホビーユース機といえど、16bitコンピュータが年齢一桁の僕の手元にやってくるのはまだ先で、その代わりに東京に越してきた僕の家にはスーパーファミコンがやってきて、ヒッポン(ファミコン必勝本)の、ボディーソニックステレオチェアでF-Zeroを遊ぶとクソヤバイみたいな記事に移り気な子供は目を輝かせていた。僕の家にはF-ZeroはあったがSFC版ポピュラスはまだなかった、大体そんなもんである。移り気な僕を再度引き止めたのは、ログイン誌のポピュラス記事で、悪魔崇拝の民族を神の力で絶滅させるという過激なバックグラウンドをここで初めて知り、あの時の記憶が鮮明にフラッシュバックする。当時は字が読めなかったので、こういった雑誌も大抵誰かに読んでもらっていたのだが、このエゲつない設定に読んでくれたお袋が顔を顰めていたのを覚えている。

これがボディソニック、ステレオ+椅子が揺れる的フィーチャー

その後、異なる神を崇拝する異教徒をハルマゲドンの後、泥沼の投石と棍棒の戦争で根絶やしにするミニマル残酷ゲームという、恐るべきバックグラウンドを知らぬ祖母に美しい景色の美術ゲームだといってねだって買ってもらったのだった。こうしてイマジニアが世界に先駆けて発売したSFC版のポピュラスを手に入れると、サルのように嵌って遊んだ。旧来のターンベースストラテジーと違い、リアルタイム故に初動や決戦など、タイミングの見極め、操作スピードといったマイクロマネジメントが求められ、大局的な戦略決定にそれらが内包されたリアルタイムストラテジーではじまり、それはまさに原体験だった。

概ね僕はSFCポピュラスに満足していたが、不満がないわけではなく、特にアスキーやソフトバンクが出してた各PC誌に掲載されていた各PC版のシリアルケーブル接続による2人対戦には恋焦がれていたものだ。その頃には既に対人戦ゲームの妙味を知っていた為、SFC版ポピュラスでクソアンイーブンな(1:8みたいな初期リソース比と操作制限を敷かれた上で戦わされる)畜生じみたゲームを頭の弱いAIと遊ぶ事で歯ごたえを感じさせるみたいなデザインはマジでファックオフだったし、フェアな競技志向を目指した腕比べとしてのポピュラスを遊びたいという欲求が沸々としており、遂にはイマジニア主催のポピュラス大会(今思えば日本E-Sportsの先駆けであった)が開催されるにあたり、僕の遊んでるポピュラスはもはや偽者のそれとなり、遊べそうで遊べない少し遊べるポピュラス程度の物になっていた。沸き起こるポピュラス対戦フラストレーションをぶつける場所などなく、そもそも周りにポピュラスをやってる人がおらず、悶々としたまま、当時の友達付き合いの兼ね合いもありゲーセン派へとシフトしていった。当時のホームは江古田と高田馬場の20円1クレゲーセンで、馬場の方は一度高校生にカツアゲにあってから行かなくなったが、ゼロ年代のはじめ位までどちらもしぶとく稼動していた、そしていつの間にかどちらも潰れていた。

ポピュラス2 SFC版は原作にはないお耽美イラストが挿入される、
原作だとクラッシュダミーズの親戚みたいなクッソ適当な顔グラフィックだったのに…

待望のポピュラス2がスーファミで発売されると、僕も久しぶりのポピュラスを楽しんだのだが、SFC P2がオリジナルP2のディメイクであり、スーファミ初期こそPCに匹敵するマシンスペックで完全なポピュラスが遊べたものの、PCハードの激動にはついていけず、P2は全くの別物になってしまったという事実を知り愕然としたのだった。第二次ポピュラスやりたい欲が沸き起こり、自分のポピュラス2は偽者で、遊べそうで遊べない少し遊べるポピュラス2だった。そこでやっと手に入れたというか、ねだって買ってもらったのが富士通の先進的な16bitホビーユースPC、FM Towns(FM Towns II)だった。アーケードっ子としては王者のマシンたるSHARP X68000が欲しかったわけだが、値段も大層、王者なそれ(定価50万位)だったので、愛しいマヌケのボンクラ息子に対する長男特有の甘やかしを持ってしても僕の両親がホイと買い与えるような代物でなかった。販売店が実施してたモニタと富士通メンブレンK/B(この原体験によって僕は未だに富士通のメンブレンをすごぶる評価している、つーか長年の慣れ。)の割引セット販売(ワンシーズン前のモデルでモニタ付き20万とかだった)とイマジニアのPopulous 2 Two Tribes(Two Tribesといえばご存知Tokitoriである、奇跡のシンクロニシティ)を購入するのだった、Populous 2はソフマップで中古がとても安かった、つーか定価12,800円とか頭おかしいわん。

ハイパーメディアパソコン!!!



その頃、友達の一人が兄弟共有でEpsonのPC98互換機を持ってて、彼は互換性問題に悩まされながらゲームをやっていた、それを見るにつれ僕は自分のタウンズが誇らしかったものだ。タウンズはラインナップ全てにCDドライブを標準搭載するという仕様により、他機種より優れたトーキーゲーやCD Audioの豪華なサウンドをいち早く採用し、スパ2の音楽がパない(でもゲームスピードが遅い)とか、ロードブリティッシュがしゃべる(でも今更4とかおせぇ!)って感じで最高でした。PC98のおこぼれで移植される負けハード感は否めないものの、異常に高い洋ゲー比率と、お下がりエロゲーだけどこれまた喋るってな、エンターテイメント優位性が高く、ついでにソフトの値崩れが早かった為、スーファミの場合ターボが出た後にスト2を買ってきた時くらいしか見せなかった、親父の予告なしサプライズプレゼントが、ラオックスのワゴンからランダムにゲームを買って帰ってくるという黒魔術的な手法により、たびたび起こり僕を歓喜させた、ありがとうタウンズ、親父が買ってくるゲームは殆どクソゲーばかりだったけど。


思えばあれからいわゆる洋ゲーばかり遊ぶようになって、結局ポピュラスの対戦は3作目ポピュラスザビギニングが出るまで実現せず、親戚から譲ってもらった白黒ディスプレイのPower Bookが意外と遊べて、マルチメディア時代になるとハイパーカードやらに意外と毒されてたとか、Miha氏によるMarathon、P&AのRise of the Triad、Duke Nukem 3Dやら、Oh PC!かなんかに載ってたシブヤヨーイチのQuake啓蒙記事の、自宅にDOS/V機を4台設置してQuakeが遊べるとかに影響されて、なんだかんだでFPS方向に走って、でもまともなDOS/V PCが手に入るまで辛くて…FMVはワケわからん独自規格モリモリのグレートパイルクソ野郎で、ゲートウェイの牛くんは聖人だったけど、なんか潰れて、ほんでいつのまにか復活してて、PCゲーマーとか自称してたくせに今では普段使いはMSIのノートとか完全に堕落してしまったけど…僕は意外と元気です、収拾付かなかったけどポピュラスは楽しいゲームだよ。

かわいいゲートウェイ牛くん人形、学校の研究室にうじゃうじゃいたな…


この記事はフィクションです。

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